院長ブログ
Vol.67 令和6年 大峯奧駈修行を終えて
2024年07月20日
【我を捨てる】
「奧駈修行では『我を捨てる事』です」。この言葉は毎回、始まる前に五條管領がおっしゃる言葉でした。毎回、この「我を捨てる」のだと、聞いてからお修行に入っていたものの、分かったようで、分からないまま毎年の奧駈修行をしていましたが、八年目の今年のお修行で、少し分かってきたかな?八年前に新客で修行に入った時は、命からがら修行を終えたので、何も考える事が出来ないくらいの余裕のなさから「我が消えた」お修行でした。その後の度衆として回を重ねるものの、相変わらずの体力の無さから、今年こそはもっとしっかり集中して歩こうとか、もっと周りを見えるようにしようとか、心と体を繋げようとか、目標を持つこと自体は別に悪い事ではないけれども、強く目標を立てるほどに、自分の事ばかりになり「我の塊」になって行ったのでした。
【八度目の奧駈修行へ】
そして昨年、七回目の奧駈修行で奉行という隊全体に関わる言わばお世話係に任命されたのだけれど、責任に対して気負ったのとそもそもの準備不足で、人のお世話どころか自分自身が脱水に倒れ、休憩の度に大の字に倒れ込む醜態をさらしてまったのでした。でもその代わりに、沢山の人に助けられている自分、そしてその沢山の人とその向こうに自然が繫がっていることを体の底から感じ、自然に涙が溢れてきて、本当に「有り難い」と心の底から感謝したのでした。
そんな昨年の体験を経ての今年、「格好良くお修行しよう」という気持ちが無くなり、一番きついところで羊羹を配って、「えーすごい、重いのにも持って来てくれてありがとう、嬉しい」と称讃される事を期待する「我」を行く前に捨てることができました。修行前日に「中田さん、今年は虎屋の羊羹持って来たん?」という修行仲間に対して「ごめんな、今年は持って来ひんかってん。今年ちゃんと行けたらな、来年は持ってくるわ」と笑顔で答えて修行に臨む事ができました。
【瞑想】
何回修行に出ても、慣れることは無く、しんどいものはしんどい。五キロも減量していつもより多く山に登って修行の日を迎えたけれどもやはりしんどい。でも、いつもの年より冷静に見つめる自分もいました。山林抖擻(とそう)修行を歩く瞑想と言う事があります。瞑想って「無」になること勝手に解釈していたのですが、今年のお修行の直前に、瞑想についての説明を聞く機会があり、その説明によると「瞑想とは雑念を消すことにあらず、色んな雑念が泡のように湧き上がっては、また集中に戻る。この繰り返しを通じてより深い瞑想に近づいていくこと」という事なのだと言うのです。実は修行で山を歩いていても、「帰ってから何をしようとか、家族の事、仕事のこと、直前に聞いていた音楽が耳を離れない」など、雑念が無い状態なんてほど遠い状態なのですが、苦しい上り坂になってかけ念仏(懺悔懺悔 六根清浄)がかかり始めると、考え事をする余裕がなくなり、ただただ一歩踏み出すだけに集中するようになるのです。ピークを過ぎたら、また雑念が湧き上がるのですが、また上り坂で集中と、まさに寄せては引いていく雑念に襲われながらも集中することになり、気が付くと1時間経ち、2時間経ち、4時間経って大休止。あれ、もう4時間経ったの?とワープでもしたかのように不思議と時間が短く感じられるのです。私は、座禅の瞑想はとても苦手なのですが、山修行では、信じられないほどの集中を連続して行っていたことに気が付いたのでした。
【修験リトリートと修験道の違い】
日常を慌ただしく過ごしていると、どうしても心があちこちに飛び回るマインドレスな状態になり、疲れてしまう。自分をそんな騒がしさから解放してあげて「自然を体に感じたい」という欲求(我)を満たして幸せを体で感じ、リラックスしたいし、身心を満足させるのが現在一般的にリトリートと言われているものの内容だと私は理解しています。日本列島は山列島で、山に行けば全国津々浦々に修験道の痕跡が見える事から、「山の自然から力を得ること、自然と一体感を得、更には身心デトックスをするのが修験道」と受けとめている人も多くいるようです。確かに、修験道に、そう言う側面はありますが、リラクゼーション、デトックス、自然との一体感を目的とするリトリートと修験道が決定的に違うのは、「我を捨てること」とその先にある「祈り」目的とする点にあると思います。
先の「瞑想」の所でも書いたように修験道における抖擻行(トソウギョウ:山をひたすら歩いて雑念をはらうこと)では、湧き上がる雑念がまさに汗と共に流れていき六根清浄となり、「懺悔懺悔 六根清浄」のかけ念仏と共にきつい登坂で集中する。そして長い長い歩きの先にたどり着いた拝所で、自分の欲のためではなく「天下太平、万民安楽」を祈る為に勤行をする。そして今日も朝、目が覚めて生かされている事に感謝をする。この「捨我と祈り」が修験道であり、リトリートとは全く異なったものだと思います。最近、あちこちで「○○リトリート、山の自然を感じる、山と一体となる」というようなキャッチコピーを見かける度に覚える違和感は、こういう事だったのだなと、今回納得することが出来て、気持ち悪さがなくなりました。誤解を受けないように付け加えておきますが、リトリートそのものは悪い事ではありませんし、多くの人がそれ参加してあぁ、自然の中って幸せ。自然って有り難い、と感じる事はとても良いことだと思います。でも、それは修験道とは全く異なったもの。個人的な意見として欲を言えば、自然との一体感を感じた後に、そこから生まれる感謝の気持ちとともに、自然に出てくる「祈り」に気が付いてくれたらなあ、と思います。
【満行の意味】
今回のお修行では事件が起きました。奉行のひとりMさんが雨上がりの滑りやすい斜面で転倒して足を骨折してしまいました。苦痛に顔をしかめるMさん。応急処方(治打撲一方)を倍量内服しても痛みが消えるわけではありません。そしてなにより、怪我をした場所から下山するには、一度、釈迦岳に登ってからでないと下山道が無いと言う事が一番の問題でした。Mさんは足の強い行者さんのひとりから金剛杖を貸してもらってダブル杖で歩く事2時間近く。驚異的な精神力で痛みに耐えて釈迦岳山頂での護摩行にも何とか間に合いました。しかし既に限界を超えた新客さんを抱える本隊を更に遅らせるわけには行かないと、山を降りる決断をされ、Mさんは奉行2人に付き添われて下山していきました。途中、こちらの法螺の音に遠くから帰って来るMさん達の法螺の音が聞こえ、彼が無事に下山中であることが確認できました。
【みんなようなれ】
「みんなようなれ」は金峰山寺の五條管領が新型コロナウイルス感染症で世間がパニックに陥っていた時から始められた「とも祈り」の標語です。「みんな」のなかには自分も含まれます。「みんなようなることで自分もようなる」単純だけれども深い言葉です。今回の修行中にも毎正午に「みんなようなれ」と念じて「南無蔵王大権現」をお唱えしました。祈りが山にこだまして、世の中に広がって行く、そんな気持ちになれました。
【さいごに】
いきなり、新客でわけの分からん奴が東南院の奧駈修行に現れ、「なんや、こいつ」と思われてただろうな、と振り返って思います。そんな私を毎年受け入れてくださった金峰山寺、東南院の皆さまの懐の深さに感謝し、そして大事な事に気付かせてくれた大峯のお山と蔵王権現さん、役行者さんに感謝し、さらには、私を修行に送り出し、家で待っていてくれた家族に対して心から感謝して今回の奧駈修行の報告とします。
「みんなようなれ」南無蔵王大権現。