院長ブログ
Vol.60 山伏の修行(行場の意味)
2023年08月19日
裏行場
修験道には行場での修行というのがあります。水行、滝行などもそのひとつなのですが、裏行場といって崖や滝をよじ登ったり、細い岩の上を歩いたりするとっても危険な修行があります。しかし何故、そんなことをするのか。私が修行を通して気が付いたことを少し書いてみたいと思います。
行場に辿り着いて行場を目の前にし、修行を始めようとする時、私の心の中ではこのような事が起きています。
- うわ、こんなところ行くんかぁ、、無理!っていう気持ちと、それでも、行くって言う選択。
- 一度始めたら、途中で止められないと言う裏行場の頑なさ。
- 前の人が落ちてきたら、自分ももろとも、自分が落ちたら後ろの人巻き添えという連続性を感じる事と、前の人・後の人をまるごと信頼、信じて行に入る事。
- そう言ったものを全部諦めて受け入れた上で、次の足場を手で触って足で押してみて体を預けて良いかの確認を自ら行い、体を預ける選択をとにかく手足に全集中して続ける。
- そして気が付いたら、行場を抜けていて、ホッとした瞬間に、凝縮していた行場での体験の一つ一つが解凍されてブワっと返ってくる。
これをまとめるとこんな感じです。
①恐怖
②覚悟
③逃げられない強制力
④他者との繋がり
⑤自他への信頼
⑥即今只今と選択の連続
⑦緩和と振り返り
厳しい行場での修行とは、この七つから成り立つ瞑想なんだなと思います。普段、あまりにも散漫な日常を送っていると気が付けなくなってしまっているけれども、行場を行じて帰って来ると日々の生活そのものが既に「行」だったことに改めて気が付くのです。行場と里の日常の違いは、里での日常では、心が明後日の方向を向いていても何となく時を過ごせしまうところだけ。だから、ある種の強制力を行使して意識的に日常を過ごさないと、日々の生活がさらさらっと過ぎてしまうということ。でも、日常生活も意識して選択することでその密度が濃くなること。そんな事に気が付くようになる、それが行場での修行だと、私は感じました。
では、常に意識的な生活を続けるのが良いのか?その答えは、まだ持っていないけれども、そもそも散漫になってしまえることもまた、人間である証拠ではないかと思っています。
修行はただの沢登りとは違う
そのような訳で、行場での修行は、ただの沢登りとは違うのです。危険を感じてスリルを味わったり、登り切って気持ちいい!ではないのです。